東洋のアリストテレスといわれた天才学者
おかげさまで、ブログの記事数も100記事を超える事ができました。100回目のご報告を兼ねて、福岡郷土史の大学者・貝原益軒先生の墓参りに行ってきたので、この機会に益軒先生の事も深堀して、今後のブログ作成の指針にしたいと思います。
先生は福岡藩士の5男として生まれ、晩年までは貝原損軒という名で、通称を久兵衛といいました。父親は藩の祐筆の他、遠隔地の警備などの役にもついていた為、恰土郡など藩内の農村地帯で少年時代を過ごしています。後年『大和本草』などの書物も執筆していますが、この頃の経験が生きているのかもしれませんね。
19歳の時に黒田藩に出仕していますが、2代目藩主の忠之公に諫言して怒りを買い、役を解かれて流罪の憂き目にあっています。忠之公といえば、黒田騒動を起こした黒田家きっての気性の荒さで有名ですが、その人に意見するとは肝が据わっていますね。まだ若いので尖がっていたのかもしれません。
長崎へ遊学
浪人期間中に長崎へ遊学して多くの書物を読み漁り、並行して医学修行も行っています。その後、忠之が隠居するとあらためて藩医として出仕したようです。
新しいお殿様の光之公は、学者肌で学問好き。藩士の育成にも熱心だったようで、損軒青年は藩費で京都へ留学させてもらいます。この時の留学で当時一流の学者たちに師事したことが、学者としての裾野を広げました。
帰藩後は150石の知行を与えられて、朱子学の講師や朝鮮通信使の応接掛などの要職を任されました。光之公は損軒青年の才能を見抜いていたのか、出自からするとかなりの厚遇です。良き理解者を得た損軒青年は、ここから歴史に残る様々な名著を生み出していきます。
住居はお城から徒歩で15分ほどの場所にありました。現在はマンションの一角に石碑のみが残っています。