大震災で多くの犠牲者が出た弁天池
吉原神社から末社の吉原弁財天へ向かいます。歩いてもすぐの距離です。

道がS字にカーブしているのは、五十間道と同様に昔の名残ですかね。

それではお参りしましょう。こちらが吉原弁財天の奥宮になります。七福神巡りのルートにもなっているようです。

ちなみに、吉原弁財天の御朱印も吉原神社でいただけます。御朱印集めている方は、吉原神社で忘れずいただきましょう。

新吉原花園池跡の説明板です。かつては湿地帯でしたが、吉原遊郭造成の際に埋め立てられ、池の一部が残りました。この池の湖畔にいつの頃からか弁財天が祀られて楼主達に信仰されたそうです。現在は浅草七福神の一社として、多くの参拝客で賑わいます。

この弁天池を語る上で外せないのが、関東大震災です。震災発生時に木造建築の密集地だった吉原遊郭は、あっという間に火の手が広がり、弁天池に避難しましたが多数の犠牲者が出ました。郭内の者155名、郭外の者490名という記録と、生々しい写真が残っています。

それでは弁天様に参拝しましょう。境内の奥に進むと水音が聞こえてきます。弁天池のなごりの水ですね。

1959(昭和34)年に弁天池は埋め立てられて消失しましたが、境内の中に小さな池を再現したそうです。

色鮮やかな錦鯉が気持ちよさそうに泳いでいました。

こちらが吉原弁財天のお社です。

失礼して中を覗かせていただくと、確かに弁天様が鎮座されています。弁天様は財運を司る神様なので、必死に祈願。

花吉原名残碑は吉原遊郭の歴史を永く止めようと、地域有志の方により建立された石碑です。下の写真では奥の樹の横にある黒い石碑です。

彫りこまれている碑文は共立大学教授で俳人の山路閑古氏の撰だそうです。

こちらは吉原観音像。関東大震災で亡くなった犠牲者慰霊のために、大正15年6月に建立されました。

関東大震災から100年経過した現在も、犠牲者慰霊のための法要は続いています。

境内には大小様々なお地蔵様や石碑などが立ち並んでいました。

石仏や石碑などに混ざって遊女の墓もあります。

新鮮なお花が活けてあり、境内も非常に綺麗に保たれています。

軽い気持ちで末社にも寄ったのですが、吉原で実際におきた被災の歴史を垣間見ることができました。