長崎・島原半島にポツンと佐賀藩領
以前から気になっていた神代小路(こうじろくうじ)に行ってきました。島原へ行く度に史跡の案内版が目に留まっていましたが、いつも通り過ぎてました。そもそも神代小路って何だろうとインターネットで検索すると、鍋島藩の飛び地だったと知り、一気に興味が高まりました。
南北朝期に神代貴益が、この地区に城を築き治めたのが神代の始まりだそうです。龍造寺氏に与していましたが、1584年・沖田畷の戦いで島津・有馬連合軍に敗れると、孤立した神代氏は滅ぼされてしまいます。
1587年、豊臣秀吉の九州国割により、神代は龍造寺領に編入されました。 有馬氏が支配する島原の一角に領地を与えた理由は、同氏をけん制する狙いが秀吉にあったと云えられています。
1607年には鍋島勝茂が主家である龍造寺氏に取って代わり佐賀鍋島藩が成立。翌年、勝茂は実兄・鍋島信房に神代を含む来郡内4ヶ村、計6267石を与えました。以後、鍋島領として藩籍奉還まで続くことになります。
神代地区のうち南北約450メートル、東西約250メートル、面積約9・8ヘクタールが、国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されています。 また、近隣地区では使われていない方言があるそうです。
一番の見所は鍋島邸でした。地区の北西に鍋島氏の陣屋があったのですが、その跡に建てられました。地元の方の話しでは、17年ほど前まで鍋島家が所有していたそうです。現在は雲仙市が所有管理しています。
かつて非公開だった屋敷内は、今では庭園も含めて見学できます。
邸内は写真、ビデオ撮影とも禁止となっており、ご紹介できないのが残念です。
受付の方にいただいたチラシによると「御北と呼ばれる万延元年(1860)建築の隠居棟と明治、大正期の近代和風の書院座敷が相まって、旧領主の屋敷に相応しい威厳を醸し出している」と解説。
わたしには、駆けっこできそうな長い廊下が印象的でした。