伊東・島津両家の明暗を分けた「南九州の関ヶ原」

天気が良かったので、ちょっと木崎原古戦場跡に行ってきました。
木崎原の戦いは、1572年に日向国真幸院木崎原で、伊東義祐(3000人)と島津義弘(300人)の間で行われた合戦です。その後の南九州の勢力図に大きな影響を与えたことから、南九州の関ヶ原とも云われています。

伊東義祐像
島津義弘像

1571年、薩摩の島津家当主・島津貴久が死去したのを好機ととらえた、義祐は、家臣の伊東祐安を総大将に、島津が治める飯野地区への大攻勢を開始します。日向を完全に支配しようとしたんでしょうね。

伊東軍は3000の兵を2分し、まず1軍が加久藤城を攻めますが失敗。木崎原でもう1軍と合流しますが、ここで急ぎ集まった島津軍に包囲され激戦を繰り広げます。島津は寡兵にもかかわらず、奮戦しついに総大将・伊東祐安を討ち取ったほか、伊東家の重臣を次々に討ち果たしました。

木崎原古戦場跡
古戦場跡には島津義弘も祭神とした池島神社があります
三角田。ここで多くの伊東の将が戦死しました

戦死者は伊東軍が850人、島津に至っては全軍の85%にあたる257人にのぼります。戦い終わった時は、どちらが勝ったか分からなかったかも。。。

伊東方の戦死者の首を埋葬した塚
島津方が血に染まった刀を洗ったとされる小川

この戦いをきっかけに伊東氏は衰退の一途をたどる一方、島津氏は日向、大隅、薩摩制圧を果たすことになりました。しかし、耳川の戦い、沖田畷の戦いといい、逆境に置かれるともの凄い力を発揮しますね。