ダムの建設で遷移されたお社
曲渕城の城跡と伝わる、曲渕の山神社へやってきました。
こちらは戦国時代には、原田氏配下の曲渕河内守が早良の十一の村を治める拠点とした城でした。
現在は曲渕ダムが道を挟んで作られています。そしてそのダム建設を契機に、水没する神社をこちらの城山へ移したのが、山神社創建の歴史です。
それにしても、流石は福岡市の水源といわれるだけあって、綺麗な水が豊富に溜まっています。
曲渕城 跡(山神社)
さて、それでは社殿のある頂上へ登ってみましょう。
ちなみにこちらの神社の揮毫は、福岡発の内閣総理大臣・広田弘毅のものだそうです。確か水鏡天満宮もそうでしたが、達筆ですね。
山神社といわれるだけあって、うげっとなるような急斜面の階段が続きます。
確かにここに城を構えておけば、寄せ手は攻め辛いでしょうね。
真ん中あたりに鳥居が建てられていて、そこがゴールかと思って頑張って登ると、まだまだ先が続いていました・・・。
振り返ると曲渕ダムがみえます。実は湖底にはかつての集落がまだ眠っています。
最後に筑前国続風土記での曲渕城跡についての記述を転記します。
曲渕古城
筑前国続風土記 巻之二十八 古戦古城場 五
曲渕村の南にあり。元禄天正の頃、曲渕河内守氏助、其子信助在城せり。高祖の原氏に属す。城の上五畝許あり。麓に居宅の址有。中門、表門、大門の跡に石垣獪残れり。宅の廻りの川端にも石垣有。此河内守は石竈、曲渕、西村、金武四箇村、田村、次郎丸、野芥、七隈、荒江、祖原、凡十一箇村を領せりと云。河内守跡に浪人となり、長政君此國を領し給ひて後に死す。
次回は城跡に建てられたお社と、境内を探索してみます。